ブルーノート・レコードは1939年に創立された

ジャズ史上最も偉大なレコード・レーベルとして君臨し続ける「ブルーノート・レコード」。そのファンは世界中に存在し、ジャズを愛する多くの人々より尊敬され、永遠に愛され続けるハイレベルな作品を生み出しています。1939年にブルーノート・レコードはアルフレッド・ライオンによって設立されました。当時のナチス政権からの脱出を試みて、ドイツからアメリカへと移り設立したブルーノートですが、ジャズとデザインという独自のスタイルで、全く新しいジャズ界の歴史を作り出してきました。ブルーノート・レコードが生み出したさまざまなアルバムやEPレコード、LPレコードやSPレコードは、今も沢山の人々に崇拝され、愛されています。今回はそんな、ブルーノート・レコードの歴史について、分かりやすく解説をしていきます。

ブルーノート・レコードの歴史

事の始まりは、1938年の12月のことでした。アメリカのニューヨークのカーネギーホールで開催された「FROM SPIRITUALS TO SWING」のコンサートに、アルフレッド・ライオンが訪れたことから全ては始まりました。その1週間後には、アルフレッド・ライオンはナイトクラブに足を運び、2名のピアニストにお金を与えることを約束し、レコーディングの誘いをしました。その誘いにピアニストたちが乗ると、あるフレッド・ライオンはスタジオの予約を入れるようになります。ピアニストたちにより集中的に練習をさせるためです。1939年、とても寒い1月6日のことでした。

それからある日のことです。アルフレッド・ライオンは、マスター・ディスクを自宅のアパートで聴いていました。このディスクは、多くの人々に届ける価値のある作品であると、聴きながら思い立ったアルフレッド・ライオンは、「このディスクをレコードにして、音楽界へ参入することを決断」したのです。2人の仲間とアルフレッド・ライオンが「ブルーノート・レコード」と名付けたそのレーベルから、まず初めに2つのレコード作品がリリースさせることになります。カタログ番号BN 1のレコードには、2曲のスローテンポのブルースを収録した「Melancholy」・「Solitude」を収めました。カタログ番号BN 2には、アルバート・アモンズの軽快なナンバーを詰め込んだ「Boogie Woogie Stomp」・「Boogie Woogie Blues」を収めました。アルフレッド・ライオンはその後、交友関係(ミルト・ゲイブラー)を通してマンハッタンにあるレコードショップのコモドア・ミュージック・ショップを訪れ、ブルーノートのレコードを置いてもらえることになります。

このときのブルーノート・レコードには、アルフレッド・ライオンと、元ライターでヴォイス・コーチのマックス・マーグリスや、ニューヨーカー誌のライター兼演劇評論家のエマニュエル・アイゼンバーグなどが在籍していました。ジャズを愛する人々の中に、「ブルーノート・レコード」という存在が高まってきたのも、ブルーノート・レコードの苦労があってこそというものです。そしてマックス・マーグリスは、1939年の5月に、ブルーノート・レコードのマニフェストを発表しました。そのマニフェストの内容は、以下になります。
「ブルーノート・レコードの目的は、ホット・ジャズやスウィングによる妥協のない表現を提供することにあります。正直で直接的なホット・ジャズは、ただ1つの感じ方であって、音楽的・社会的な自己表明でもあります。ブルーノート・レコードの関心は、センセーショナリズムやコマーシャリズムを抜きにして、ホット・ジャズそのものの衝動を明確にすることにあります。」

アルフレッド・ライオンはスタジオに戻り、偶然そこにいたのは、シドニー・ベシェでした。彼は、ジョージ・ガーシュウィンの「Summertime」を録音していました。シドニー・ベシェは、ドイツのベルリンで顔見知り程度の存在でしたが、BN 6でリリースされたSummertimeは、最高のレコードだけに終わりません。コモドア・ミュージック・ショップだけで1日30枚売り上げ、ブルーノート・レコードとして、初めてのヒットとなったのです。この直後から、ブルーノート・レコードは、新たなセッションを開始しますが、戦争が始まったことで、アルフレッド・ライオンは徴兵のため、アメリカのテキサス州に移ることになります。その後、医学的な問題から名誉除隊し、1944年より、セッションを再開しました。

1944年の7月には、スタジオの日誌にスイングテットの名が加わります。テナー・サックス奏者のアイク・ケベックはまだ25歳ではあるものの、スイングテットの重要人物であり、スウィングをベースとするバンドとして、ブルーノート・レコードに大きな刺激をもたらしました。この頃、シングルの新しいフォーマットになり始めていたレコードが、45回転の7インチ盤でした。アルフレッド・ライオンの目標とする夢が現実のものとなったのは、その後の1950年代のことです。1955年になると、45回転の7インチシングルであるホレス・シルヴァーの「The Preacher」がヒットを飛ばします。その後、程なくして、オルガン奏者のジミー・スミスがブルーノート・レコードと契約を結び、そのアルバムもヒットとなりました。こうしてブルーノート・レコードは、1950年代にリリースをした全てのアーティストがヒットを飛ばすという、ジャズ界の歴史上前例のない偉大な記録を作っていきます。

1962年になると、ジミー・スミスがブルーノート・レコードからヴァ―ヴ・レコードへと移籍を行う前の段階でした。ジミー・スミスの作品である「Midnight Special part 1&2」は、全米ポップ・チャートにおいて、69位を獲得しました。また、シングルがチャートインしたことによって、さらに沢山の人々が、ジミー・スミスのサウンドの虜になるきっかけにもなりました。1966年の5月には、ビルボード誌が「ジャズ界のキャデラック」と呼んでいたものを、リバティー・レコードが買収をします。アルフレッド・ライオンは、設立より26年経った彼自身のレーベルを、設立10年ばかりのレーベルへと売却することを決めたのです。リバティー・レコードは、フランシス・ウルフとアルフレッド・ライオンの2名と契約をし、2年間はレーベルを任せることとしました。この背景として、アルフレッド・ライオンは売却を希望していたわけではないものの、軽度の心臓発作により、後妻のルースが不安に感じていたこともあり、そんなときに現れたのが、リバティー・レコードだったといいます。アルフレッド・ライオンは、ブルーノート・レコードに長くは留まらず、翌年に辞任をしています。

1956年よりブルーノート・レコードで収録を行っていた人物に、ドナルド・バードが該当します。新しいジャズの方向を取ったドナルド・バードのスタイルに、まだ慣れることのない人も多かった時代に、「Black Byrd」というアルバムで音楽賞を受賞したことによって、一気に観衆の注目を集める存在となりました。このBlack Byrdというアルバムは、全米チャートにもランクインされており、表題曲もシングル・チャートにランクインされています。その後、ブルーノート・レコードが再起を果たしたのは1980年代のことです。新社長であるブルース・ランドヴァルは、レコード会社でのキャリアに富んでいて、ブルーノート・レコードのために「売れるレコードを制作する」ことに力を入れました。ブルース・ランドヴァルが契約を結んだアーティストとして、ボビー・マクファーリンが存在します。そして、ブルース・ランドヴァルの指針が正確であったことが確実となったのは、その2年後の、ボビー・マクファーリンの「Don’t Worry Be Happy」が大ヒットとなり、世界中でエアプレイされたときでした。

1993年には、ブルーノート・レコードより、アススリーがリリースしたアルバム「Hand on the Torch」は、さまざまなサンプリングが導入されています。ドナルド・バードや、セロニアス・モンク、ホレス・シルヴァーやアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズなどの曲から取り入れたサンプリングになっています。翌年の1994年1月には、このアルバムが、全米アルバム・チャートで31位にランクインしました。全米のシングル・チャートでトップ10にランクインした「Cantaloop(Flip Fantasia)」は、そのプロセスでミリオン・セラーを記録しています。レーベルの創設より63年経った2002年には、ノラ・ジョーンズのシングル「Don’t Know Why」が、全米チャートの30位に位置し、その後には、名誉あるグラミー賞を受賞しました。ノラ・ジョーンズは、シタール奏者であるラヴィ・シャンカールの娘であり、アルバム「Come Away With Me」は、ブルーノート・レコードの新しい道筋を示す重要な作品となりました。

2003年の夏になると、マッドリブ名義でプロデューサー活動に専念していたオーティス・ジャクソンは、アルバム「Shades of Blue」を発売しています。このアルバムは、ブルーノート・レコードの昔懐かしい曲をリミックスしたものであり、誰が聴いても最高の出来栄えとなっています。また、世界中のブルーノート・レコードファンの胸を揺さぶる作品でもあります。2010年代には、ブルーノート・レコードが新たに設立したチーフ・クリエイティブ・オフィサーという役職にドン・ウォズが就任しています。ドン・ウォズ率いるブルーノート・レコードは、「妥協のない表現」のもと、新たな時代の幕開けとなりました。ラストの5曲は、ブルーノート・レコード所属のアーティストが発売したアルバムのPRに使われてきたものになります。全体的な統一感とジャズの融合は、ドン・ウォズのクリエイティブなビジネス戦略の賜物であると言うことができます。ホセ・ジェイムズやロバート・グラスパー、ウェイン・ショーターやジェイソン・モラン、グレゴリー・ポーターやボビー・ハッチャーソン、デリック・ホッジやロザンヌ・キャッシュをスムーズにリリースすることのできるレコード・レーベルは、まさにブルーノート・レコードだけであるという事実を、決して忘れてはならないでしょう。

ブルーノートで有名な日本人といえば?

ブルーノート・レコードから、その技術力の高さから、確かな腕を認められた日本人がいるのは、ご存知でしょうか。その名は、トランぺッターの黒田卓也さんです。ニューヨークを拠点とし、活躍する黒田さんは、12歳でトランペットを始め、アメリカ・ニューヨークのニュースクールのジャズ科に進学しました。ホセ・ジェイムズとの出会いを契機に、注目を集める存在に。2014年には、ブルーノート・レコードより日本人として初のアルバム「RISING SON」を発売し、世界的に名の知られる存在へと上り詰めます。そんな黒田さんですが、一体どのような背景で、ブレイクしていったのでしょうか。ここでは、黒田卓也さんに焦点を当てて、詳しい解説をしていきます。

トランペット

黒田卓也

黒田卓也さんは、ホセ・ジェイムズに出会うまで、ジャズ以外の仕事もしながら生活をしていましたが、ホセ・ジェイムズのワールド・ツアーに参加するようになったことで、黒田さんが本当に望む仕事のみで生活ができるようになっていきます。その後、ホセ・ジェイムズより、「今後あなたは自分でバンドを作り、その中でリーダーとしてやってみなさい。」と伝えられ、ブルーノート・レコードの方を紹介してもらったことをきっかけに、2014年の2月に「RISING SON」をリリースしました。ブルーノート・レコードからリリースしたとは言っても、世界的に診て全くの新人であって、ワールドツアーを回れば、バンドに支払う報酬だけで赤字続きだったと言います。それでも稼がなければいけないけれども、イメージを保つために、全ての仕事を引き受けることが正解というわけでもなく、バンドのリーダーになるということは、とても大変なことなのだと実感したそうです。しかしその後、日本人のコミュニティーの中でも名が知られるようになったことで、さまざまなご縁へと、結び付いていったと言います。黒田卓也さんのブレイクには、ホセ・ジェイムズの存在が、大きく関わっていたと言うことができます。

進化し続けるブルーノート・レコードから決して目が離せない

演奏映像

1986年に日本で開催された「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」では、アルフレッド・ライオンが日本まで足を運び、日本のジャズ好きの人々の熱に感動したアルフレッド・ライオンでしたが、アメリカに帰国後、再度体調が悪化します。その翌年の1987年の2月2日には、ジャズに捧げたその生涯を、ついに終えることとなりました。偉大な歴史を築いたブルーノート・レコードですが、その軌跡はレコードそのものに収められたジャズ音楽だけに限らず、それらのレコーディングに費やされたジャズに対する愛にこそあるのではないでしょうか。今後も、ブルーノート・レコードの動向をチェックしながら、愛に溢れるブルーノートの音を楽しんでいきましょう!

まとめ

マイクと演奏会場

今回は、ブルーノート・レコードの歴史について、分かりやすく説明を行いましたが、如何でしたでしょうか?ブルーノート・レコードの音楽は耳にしたことがあり、興味はあるけれど、その歴史まではまだご存知なかったという方や、ブルーノートのレコードは何枚も持っているけれど、歴史はこれから学ぼうと思っている方なども、いらっしゃるのではないでしょうか。ブルーノートの歴史を知ることは、よりブルーノートを理解することに繋がります。ブルーノートの歴史について詳しく知ったところで、改めてお気に入りのレコードを聴いてみると、新たな角度から、ブルーノートを聴くことができて、ブルーノートの音をさらに深く感じることができるはずです。
TU-Fieldでは、レコード買取を行っておりますので、ぜひお気軽にご相談下さい。
お問い合わせはこちら
ジャズの買取価格一覧はこちら