坂本九、若い方でも名前は知っていることでしょう。
「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など数々のヒット曲を生み出し、全世界におけるレコードの売り上げは1500万枚以上に達しています。
また、映画や舞台の俳優業、テレビ番組の司会など、その活躍は多岐に渡ります。
今回は坂本九の軌跡を辿りながら、レコードの買取相場も合わせてご紹介します。

坂本九の魅力

少年時代にエルヴィス・プレスリーに憧れ、そのモノマネをさせたら右に出る者はいないと言われ、仲間内の人気者だった坂本九。
小学生のころから「ハリー・ジェイムスのトランペットは色っぽい」「歌舞伎の所作はいい」などと、自然に芸事や洋楽に触れていて、当時としてはとてもハイカラな環境で育ちました。
邦楽の素養と洋楽の要素を活かした独特の歌い方は、斬新で新しい歌唱法と注目されましたが、保守的な大人からの評価はそれほど高くありませんでした。
しかし、日本語を英語のようなグルーヴで歌うスキルや、キーが高めで少しハスキーな声質は個性的で、唯一無二の存在となっていきます。

レコード買取相場

タイトル参考買取価格
九ちゃんの炭坑節/オールナイトで踊れたら(赤盤EP:JP-5257)2,000円
九ちゃんの唄 第2集(半掛け帯付き赤盤LP:TR-7003)5,000円
坂本九プレスリーを唄う(帯付き赤盤LP:TP-8176)7,000円
何もいらない俺だけど/題名のない唄だけど(EPレコード:VS-256)10,000円
九ちゃんの歌(帯付き赤盤LP:TR-7006)10,000円

※買取価格は状態、付属品の有無によって大きく変わります。
また相場状況でも変動がございますので、ご参考程度にお考え下さい。

坂本九の軌跡

①バンド時代

坂本九が初めて加入したバンドはなんと、ザ・ドリフターズでした。とはいえ志村けんやいかりや長介など、皆さんもご存じのメンバーはまだいない頃です。
しかし、当時高校生の坂本九にはきつかったらしく、わずか半年でバンドを脱退、芸能界も一時引退してしまいました。プロダクションのスタッフは、そんな坂本と親も説得するために坂本家に通い、ザ・ドリフターズのリーダーも説得し、事実上の引き抜きということでザ・ドリフターズを脱退。
ダニー飯田とパラダイス・キングの一員としてビクターレコードと契約するも、デビュー曲はヒットしませんでした。

②ソロに転向

1960年に東芝音楽出版に移籍し、デビューシングル「悲しき六十才」が10万枚を売り上げ、ヒットを記録。
1961年には「上を向いて歩こう」を発表し、日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて「六八九トリオ」と呼ばれました。
1963年には「SUKIYAKI」と題して、アメリカのビルボードチャートで3週連続1位を獲得しており、ビルボードチャートで1位を獲得している日本人アーティストは、坂本九だけです。
さらに、翌年には米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超え、日本人初のゴールドディスク賞を受賞しています。
「上を向いて歩こう」が世界的にヒットし、国際的な活動も多かったようです。

③航空機事故死

1985年にレコードレーベルを移籍。
移籍後第一弾シングル「懐かしきlove-song/心の瞳」を発表し、再び歌手活動を本格化させようとしていました。
同年8月12日、大阪の友人の選挙応援に駆けつける道中、日本航空123便墜落事故に巻き込まれ死去。43歳でした。
坂本九は国内移動には必ず全日空を利用していましたが、お盆の時期が重なりチケットが取れず、日本航空を利用したそうです。
坂本九の不慮の死は、日本音楽界にとって大きな損失と言われ、この事故は、乗客・乗員合わせて520名もの犠牲者を出し、4名が重傷と単独機の航空機事故としては史上最悪で、社会への衝撃も壮絶なものでした。

まとめ

今回は坂本九の軌跡を辿りながら、レコードの買取相場も合わせてご紹介しましたが、いかがでしたか?
志半ばでこの世を去ってしまったこと、もしもという話は野暮ですが、もし事故を回避できていたら、今どんな歌声を披露しているのだろうと感慨深いです…。

さて、TU-Fieldでは聴かなくなったレコードの買取をおこなっています。
ダウンロードやCDでは手に入らない、廃盤になった作品もレコードには多くあります。
素晴らしい音楽や芸術を、次の世代に引き継ぐためにも【処分】ではなく
【買取】を選んでいただけたら嬉しいです。

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