ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズと並び、イギリスの三大ロックバンドのひとつであるザ・フー。
当時のイギリスで流行していた音楽やファッションなどのライフスタイルや、またその支持者を「モッズ」と言いますが、そのモッズカルチャーを代表するバンドと言われています。
また派手なステージングも有名ですね。
ギターをステージに叩きつけるなど、その過激なライヴパフォーマンスはモッズたちの心をさらに虜にしていきました。
デビューから半世紀経った今でも、現役で活動をしており、後進のミュージシャンに与えた影響は計り知れません。
今回は、そんなザ・フーの歴史を振り返りながら、レコードの買取相場も解説していきます。

メンバー紹介

現在も活動しているザ・フーですが、オリジナルメンバーは2人です。
こちらでは、デビュー当時のオリジナルメンバーの4人をご紹介します。

ロジャー・ダルトリー(ボーカル・ハーモニカ)

俳優としても活躍するほどの二枚目で、ファッションを含めてザ・フーのビジュアルイメージを牽引しました。
ライヴではマイクを投げ縄のように振り回すパフォーマンスで知られています。
振れ幅の広い楽曲を解釈し、繊細さや荒々しさなど多彩に表現するハスキーな歌声が特徴です。

ピース・タウンゼント(ギター、ボーカル、シンセサイザー、キーボード)

ザ・フーの大部分の曲をソングライティングしている「バンドの頭脳」です。
ライブを派手に演出するために生み出した、右腕を大きく回してピッキングする「ウインドミル奏法」はあまりにも有名です。

ジョン・エントウィッスル(ベース、ボーカル、ブラス、キーボード)

暴れまわるメンバーを横目に、涼しい顔で淡々とベースを弾き続けるスタイルを貫き通しながらも、リードベースと称される超人的プレイはバンドのサウンドを支える重要な役割を果たしていました。
ベースソロさながらのラインづくりは、当時のベーシストや後進のベーシスト達にも多大な影響を与えました。

キース・ムーン(ドラムス)

ジョン・エントウィッスル同様、リードドラムと称されるほどの即興性の高いプレイや、強烈なパワー、ドラム破壊などの過激なパフォーマンスは唯一無二です。
「スマザーズ・ブラザース・ショー」出演時にはドラムを爆発させ、メンバー4人中3人が怪我を負う事態になりました。
「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」では、ジョン・ボーナムに次ぐ第2位。
破天荒な性格で、プライベートでも伝説が多いドラマーです。

デビュー~1970年

1964年にバンド名「ハイ・ナンバーズ」としてデビューするも、不発。
1965年にバンド名を「ザ・フー」に改名して再デビューとなり、デビューシングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英8位のヒットとなります。
さらに三枚目のシングル「マイ・ジェネレーション」は全英2位の大ヒットとなり、瞬く間にスターダムへと駆けあがりました。
ポール・マッカートニーに「ザ・フーの出現は1965年の音楽シーンにおいて最重要事項」と言わせてしまうほどの活躍ぶりでしたが、当時バンド内ではドラッグの使用をめぐりダルトリー対他の3人との衝突が絶えず、一時的にメンバーが脱退するという事態もありました。
そんななか、1966年に発表したアルバム「ハッピー・ジャック」は全米24位で、アメリカでの初ヒットとなり、1967年からはアメリカでの活動が本格的に始動します。
アメリカでの人気が高まる一方で、本国イギリスでの人気に陰りが出始め、次回作のアルバムが失敗に終われば解散というところまで追い詰められます。
そして1969年に発表したアルバム「トミー」は2枚組の大作で、キャッチーさなどがないシリアスな作風ながら全英2位、全米4位の大ヒット。
解散の危機から脱すると共に、ロック・オペラというジャンルを確立しました。

1970年~解散

1970年に発表した初のライヴアルバム「ライヴ・アット・リーズ」は全英3位、全米4位の大ヒット。
同年、「トミー」に続くロック・オペラを企画するも頓挫し、そこからの楽曲の一部を集めて翌年にアルバム「フーズ・ネクスト」を発表します。
バンドが望まないカタチで発表したにもかかわらず、作品は高い評価を得て、バンド初となる全英1位を獲得しました。
1973年にはロック・オペラ第2弾「四重人格」を発表し、英米共に2位となる大ヒットとなります。
しかし、この時期からザ・フーは下降線をたどるようになります…。
ムーンは妻と離婚し、以前にも増して酒に溺れるようになっていき、ライヴ本番前に酒と動物用の鎮静剤を混ぜて飲み昏倒し、ファンにドラムを叩いてもらい、その場をしのぐといったハプニングや、バンドメンバー対マネージャーとのトラブルなどが起こりました。
1975年にアルバム「トミー」が映画化し、この映画で俳優デビューしたダルトリーは、これをきっかけに俳優業にも本格的に進出していきます。
同年にアルバム「バイ・ナンバーズ」とムーン唯一のソロアルバム「ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン」を発表し、これまでにない大規模なスタジアムツアーを開催。10月から翌年10月まで続いたツアーは大盛況となり、ローリング・ストーン誌の1976年最優秀グループに選ばれました。
しかし、このツアー中の1976年1月にムーンがアルコールの禁断症状を発症し、一時意識不明となり、8月には過度の飲酒による8日間の入院を余儀なくされ、ツアーの日程に影響を及ぼしました。
ムーンの長年にわたる酒と薬物による健康状態は深刻なもので、以降長期のツアーは組めなくなってしまいます。
1978年にアルバム「フー・アー・ユー」を発表し、ザ・フーの復活を印象付けたかのように思われましたが、同年オーバードースにより、ムーンが死去。32歳の若さでした。
ムーンが亡くなった翌日、ザ・フーを存続させる決意を宣言し、新メンバーが加入。
しかし、新メンバーをめぐりバンド内に軋みが生じ始め、かつてのような勢いはなくなっていきました。
1983年にタウンゼントがザ・フー脱退の意向を示し、正式にバンドの解散が決まりました。

再結成~現在

1985年に再結成し、サポートメンバーなどを加えライヴツアーや作品発表などをおこなっていきます。
全米ツアー初日を翌日に控えた2002年6月27日、エントウィッスルが薬物摂取に起因する心臓発作で急死。
残されたメンバーはツアーを続行するか悩みましたが、7月1日よりツアーを開始し、この日の公演ではメンバー全員が黒い衣装でステージに上がりました。
2004年には横浜と大阪で開催されたロックフェスティバルに出演のため、初来日を果たします。
デビュー50周年にあたる2014年には、新曲を含めた2枚組オールタイムベストアルバム「ヒッツ50」を発表。
2019年には13年ぶりとなるオリジナルアルバム「WHO」を発表。
70歳半ばになった現在も、精力的にライヴ活動をおこなっています。

ザ・フーのレコード買取相場

ザ・フーの60年代の作品は特に希少です。
LPだと帯が残っていることが少なくプレミアがつくほか、50年以上前のものなので状態が良いものはかなりレアで高額が期待できます。

タイトル参考買取価格
恋のピンチヒッター(EP:DP-1494)15,000円
恋のマジック・アイ(LP:SLPM-1394)20,000円
ラスト・タイム/俺の指図で(EP:DP-1569)20,000円
アウト・イン・ザ・ストリート(EP:DS-457)50,000円
エキサイティング・ザ・フー(LP:SLPM-1385)200,000円

※レコードは状態や相場状況によって買取価格が変動します。
あくまでも参考程度にお考えいただくようお願いいたします。

まとめ

今回はザ・フーの歴史を振り返りながら、買取相場もご紹介してきましたが、いかがでしたか?
今もなお語り継がれる過激なステージパフォーマンスを、私も実際に見てみたかったです。

さて、TU-Fieldでは聴かなくなったレコードの買取をおこなっています。
ダウンロードで音楽を聴くのが当たり前の時代ですが、その一方でモノとして所有したい方も増えています。
レコードにはCDやダウンロードでは手に入らない、廃盤になった作品も多くあります。
次の世代に引き継ぐためにも【処分】ではなく、【買取】を選んでいただけると嬉しいです。
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どうぞ、お気軽にご相談ください。