1978年から1983年までのわずか5年の活動(以降も再結成をしたりしています)で、テクノポップの元祖と称されるほどになり、現在でも世界の音楽シーンに影響を与えているイエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)。
YMOという名称は白人のやる音楽でもブラックミュージックでもない、黄色人種独自の音楽を作り上げるという思いから付けられたそうです。
音楽だけでなく、ファッションなどでも影響が大きく、テクノカット(刈り上げ+もみあげなしの短髪)は当時の若者の間で大流行しました。
今回は、そんなYMOについて解説しながら、レコードの買取相場もご紹介していきます。

イエロー・マジック・オーケストラのメンバー

・細野晴臣

大瀧詠一や松本隆などが名を連ねるバンド「はっぴぃえんど」では日本語ロックを構築、解散後にはバンド「ティン・パン・アレー」を結成し、それまで脚光を浴びることがなかったバックバンドというポジションにスポットを当てるなど、音楽シーンに多大な影響を与えています。
「はっぴぃえんど」「ティン・パン・アレー」も、いわゆるシティポップにおいて重要な役割を果たしており、その功績は計り知れません。
この2つのバンドを経てYMOを結成し、リーダー・プロデューサーとしてシンセサイザーとコンピューターを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出しました。

・坂本龍一

スタジオミュージシャンとして活動(大瀧詠一や山下達郎などのアルバムに参加)した後、YMOに参加。
YMOでは楽曲を構築する重要な役割を果たし、ライブでは楽曲のアレンジを一手に引き受けていました。
幼少期からピアノを始め、幼稚園の頃には作曲を始めており、東京藝術大学作曲科、同大学院を修了と、音楽の素養のベースにはクラシック音楽があります。
YMO散開後は、映画音楽の制作や俳優としても活躍し、時代の寵児と称されるほどとなりました。

・高橋幸宏

サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。
YMOではファッションデザインの才能を活かし、衣装のデザインも担当していました。
本職であるドラムも、厳格なまでに正確なリズムと少ない音数で、多彩な表現を可能とする独特なタイトな演奏は、ミュージシャンたちから高くリスペクトされています。
YMO結成当時は、メンバーの中で唯一海外でのライブ経験を持っていました。

イエロー・マジック・オーケストラの歴史

初期~中期の活動

1978年にアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」でデビューします。
翌年には同アルバムを全米でも発売し、ロサンゼルスで前座公演をした際には、前座にも関わらず拍手喝采でアンコールを求められるなど絶賛の嵐となりました。
またYMOを全世界に売り出すプロジェクト「イエローオペレーション」が開始されたのもこの頃です。
1979年に発表した2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」はオリコンチャート1位にランクインし、国内でのセールスは100万枚を超え、YMOの名を幅広い世代に浸透させることとなりました。
海外でも評価が高く、黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や、真っ赤な人民服風のコスチュームなど、独特なスタイルも注目を集めました。
海外で先に火がついたYMOの人気は、逆輸入されるようなカタチで日本でも爆発的な人気となり、若者だけにとどまらず小学生にまで広がっていきます。
若者がテクノカットをまねて、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど社会現象となりました。

中期~散開の活動

1981年はYMOにとって大きな転換期と言われており、前衛的とも言われているアルバム「BGM」を発表します。
当時開発されたばかりのMTR(マルチトラック・レコーダー)を使用したこのアルバムは実験的で、今までの印象とは違う、暗く重いエレクトリックサウンドを展開しました。
音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家から高い評価を得ますが、今までのサウンドを期待していたファンからは失敗作、駄作などと酷評され、セールス面では大きく落ちこむ結果となります。
同年11月には「BGM」とは趣向の異なるアルバム「テクノデリック」を発表し、当時では最先端のサンプリングマシーンを使用して、金属音や人間の声などをサンプリング、加工をします。
この「テクノデリック」でのサウンドは、後進のアーティストに多大な影響を与えました。
そしてこの時期から、細野晴臣と坂本龍一の不協和音が発生し、その仲はかなり険悪となっていきます。
二人の仲を取り持つ高橋幸宏は、とても神経を擦り減らしていたようです。
ここからソロ活動などが始まり、楽曲の提供やプロデュース、レーベル設立など個々の活動が中心となります。
1983年には「君に、胸キュン。」で活動を再開し、YMOのシングルとしては最大の売り上げ枚数を記録しました。
そして同年に発表したギャグ色の強いアルバム「サーヴィス」を持って散開となります。
(解散ではなく散開という言い回しは、ファンがショックを受けないようにと細野晴臣が考慮したためです)

散開以降

散開から10年経った1993年に再生(再結成)が発表され、記者会見は笑いをふんだんに盛り込んだ内容でした。
同年にアルバム「テクノドン」を発表してライブもおこないますが、その後再び活動を停止(再生することはメンバー自身の本意ではなかったと、後年に3人ともが口を揃えて語っているようです)。
以降、YMOとして活動するのに否定的な姿勢でしたが、2007年にビールのCMで三人が揃って出演し、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「ライディーン79/07」は数々の音楽配信サイトで1位を記録しました。
その後、YMOでの活動は現在も続いており、世界を舞台にライブをおこなっています。

YMO周辺のレコードの買取相場

さて気になるYMO関連のレコードの買取事情です。ネットで検索すると1枚1,000円を超える買取価格が紹介されていますが、YMO自身のレコードの場合、「初回カラーレコード」など条件があったりするので要注意です。
YMOの面々は先にご紹介したように、別のバンドや名義での活動もあり、むしろそういったレコードのほうが高価買取になることがあります。例えば細野晴臣のソロ作品、はっぴいえんどなどです。
また、表に名前が出ていなくても、プロデュースなどで関わっているアーティストが高値になることがあります。例えば吉田美奈子の「扉の冬」や大貫妙子の「サンシャワー」などは数千円の買取が期待できます。

まとめ

今回はYMOについて解説しつつ、レコードの買取相場をご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?
もし聴かなくなったレコードをお持ちであれば、ぜひTU-Fieldにご相談ください。
レコードはダウンロードやCDでは手に入らない、廃盤になった作品も多くあります。
次の世代に引き継ぐためにも【処分】ではなく【買取】を選んでいただけると嬉しいです。
ご連絡をお待ちしております!