今年、73歳でこの世を去った弘田三枝子。
その圧倒的な歌唱力とパンチの効いた歌声は、和製R&B娘とも評され、
「ダイナマイト娘」「パンチのミコちゃん」と呼ばれていました。
シンコペーションやスタッカートなどを多用し、日本語詞がリズムに上手く乗った歌唱法は、その後の日本語ポップス歌手たちに、大きな影響を与えたと言われています。
今回は弘田三枝子の経歴と、レコードの買取相場を解説していきます。

弘田三枝子の経歴

幼稚園の頃から歌手になることを決意し、小学生のころは児童劇団に入団したり、日本ジャズ学校に通うなど、母の手厚いサポートで歌の勉強をしました。
中学に上がるころには、進駐軍キャンプでジャズやポップスを歌い、得意なスキャットを磨いていきます。
1961年に東芝音楽工業から「子供ぢゃないの」でデビュー。
翌年、各社競作で出された「ヴァケイション」が20万枚のヒットを記録します。
「10年に一度の天才歌手」と言われ、全盛期にはテレビやラジオのレギュラーを20本以上も持っていたというほど、引っ張りだこの人気歌手となりました。

レコードの買取相場

高価買取できるタイトルを5つピックアップしました。若いころのレコードが希少性が高く人気です。なお、この買取価格は帯など付属品が揃っている場合の目安です。

タイトル参考買取価格
ミコ ロックの歴史を歌う(LP:JPW-37)1,000円
ニューヨークのミコ(LP:JPS 5072)3,000円
日本民謡を唄う(10インチ:TP-5001)4,000円
ヒット・キット・パレードVol.3(10インチ:JPO 1285) 5,000円
リサイタル(半掛け帯LP:TR-7004) 5,000円

※買取価格は状態、付属品の有無によって大きく変わります。
また相場状況でも変動がございますので、ご参考程度にお考えください。

弘田三枝子のトピックス

①日本人として初の快挙

1965年、アメリカで開催された「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に東洋人として初めて出演。
ジャズを勉強していた三枝子は、たまたま同じ新幹線に乗り合わせていたプロデューサーに自ら売り込み、当時18歳の三枝子は「日本の小さいジャズシンガー」として紹介され、フェスティバル3日目のメインアクトを飾りました。

②カムバック

60年代前半あたりまでは好調を保っていた三枝子ですが、66年頃からのGSブームに乗り遅れ、セールスが振るわない状況になっていきました。
「アメリカン・ポップスやオールディーズを歌う古い歌手」というイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが1969年に発表した「人形の家」です。
この作品はオリコンチャートで1位を獲得し、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞しました。
その後、大人の女の愛の悲しみを歌った曲を立て続けにヒットさせ、今までの若さとパンチのあるハツラツとしたイメージから、楽曲も外見も色気を纏う大人の女性となり、再び爆発的な人気を獲得することとなります。

③タレントダイエット本の元祖

前述したカムバックの際に、20キロのダイエットに成功した三枝子。
この経験も踏まえ1970年に「ミコのカロリーBOOK」を出版し、150万部を売り上げるベストセラーとなりました。
芸能人のダイエット本の先駆けと言われており、さらに同年ベストドレッサー賞も受賞しています。

まとめ

今回は弘田三枝子の経歴と、レコードの買取相場を解説してきましたが、いかがでしたか?
幼少期からブレることなく歌を愛し、技術を磨き続けた姿には敬服します。

さて、TU-Fieldでは聴かなくなったレコードの買取をおこなっています。
ダウンロードやCDでは手に入らない、廃盤になった作品がレコードには多くあります。
素晴らしい音楽や芸術を、次の世代に引き継ぐためにも【処分】ではなく、
【買取】を選んでいただけたら嬉しいです。

ご連絡をお待ちしております!